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彼はなぜ、日本ではいまだ黎明期にあった写真術を学んだのか。なぜ銅山御用の写真師となったのか。なぜ銅山御用の写真師となったのか。一人の写真家の素顔と小野崎写真館の歴史を綴る。
小野崎一徳
小野崎一徳は本名を蔵吉といい、文久元年(1861)、岐阜大垣藩士・小野崎五右衛門蔵男の子として生まれた。大垣藩『座右秘鑑』のよると、小野崎家の石高は200石で旗奉行・藩主側役の要職をつとめていた。藩は戊辰戦争では官軍方で参戦した。版籍奉還の明治2年(1869)、蔵男は藩の権大参事となり、明治4年の廃藩置県で当時の初代教育長になった。
  幕末期の大垣藩は先進性のある藩で、蘭学導入にも積極的であって、多くの志士を長崎などに遊学させていた。嘉永元年(1848)にオランダ経由で長崎に到着した写真技術は、それから5年後の万延年間(1860〜61)には同藩藩士の蘭学者・飯沼慾齋(よくさい)が長崎から持ち帰り、藩主・戸田氏政に献上している。また、嘉永5年のペリー艦隊に同行した写真家・ブラウンによって下田に入ってきた写真技術も、大垣藩人夫頭として現地に赴いた久世喜弘(くぜよしひろ)が翌6年に大垣に伝えている。
蔵男と江崎礼二の因縁
明治3年、小野崎蔵男は権大参事として東京駐在となった。その時、久世喜弘の門下生である塩谷礼二(1845〜1910)が写真術を東京で学びたいという希望を聞き、従僕の一人に加えて上京する。このことが、のちに蔵男の息子・蔵吉を写真に結びつける契機となった。
  下田から入ってきた写真術の元祖・下岡蓮杖(れんじょう))に学んだ塩谷は、明治4年には東京・芝宇田川町に写真館を開業し、翌年、新興繁華街である浅草奥山に店を移した。塩谷は開業に際して、自身の出身地・大垣江崎村の名をとって江崎礼二と改姓し、江崎写真館は東京で一流の写真館として名声を得る。
新職業の写真師は、明治10年には京浜地区だけで130店あまり、特に浅草は激戦地で40軒近くが営業したほどで、ハイカラを代表する職業として繁盛していたのである。
当時の写真機材は高価で技術の習得にも時間を要するが、できあがった写真は多くの特権者たちにもてはやされた。
  一方、蔵男は大垣に帰り県務に復帰するが、江崎礼二の成功もあり、写真の将来性を見込んで、家屋敷が火事で焼失した明治9年に藩校の学生だった息子・蔵吉を江崎写真館に送ってその門下生とした。 
写真師・小野崎蔵吉一徳の誕生である。
銅山御用「光彩堂」
江崎礼二は新技術の導入に積極的であり、明治15年には英国から開発されたばかりの乾板写真技術を輸入して、日本に定着・普及させた。翌16年、江崎は飛んでいる鳩や隅田川における海軍の水雷爆破の瞬間を撮影することに成功。新聞に報道されて、「早撮り礼二」の名は一挙に広まった。さらに明治20年には夜間撮影を成功させるなど、日本写真界のパイオニアとして活躍した。
  この江崎の写真技術に注目したのが古河市兵衛である。市兵衛は足尾銅山の近代化の状況を記録するために、腕のよい門下生の派遣を江崎に依頼するが、その時推挙されて足尾を担当したのが一徳である。
16歳で江崎に入門した一徳が、古河の嘱託として足尾に入山したのは明治16年。彼は23歳であった。その時に持参した機材は輸入されて間もない乾板写真機が中心であったと思われる。東京と足尾を行き来して撮影し、初めのころは江崎写真館の名で写真を納入していた。
  明治20年、足尾で大火事が発生した。直利橋製錬所や直利橋をはじめ、付近の集落を焼き尽くす松木の大火である。焼け跡の再建を機に、足尾鉱業所は赤倉にあった所有地に二階建ての写真館を建ててくれた。明治21年、彼はそこに光彩堂の看板を掲げ、銅山御用の写真師となった。また、独立したその時に、父・蔵男の号・辛徳から一字を取って一徳と号することになる。通常は「いっとく」と呼ばれているが、写真台紙にあるローマ字の綴りによると本人は「かづのり」と称していたようだ。これ以降の写真は小野崎写真館名となっている。
「足尾赤倉に小野崎一徳氏あり」
一徳は足尾定住の際、妻を娶った。余談になるが、妻のトメはのちに元帥となった寺内正毅家にお手伝いとして奉公し、正毅の長男・寿一の幼児時代の担当であった。後年、元帥となって太平洋戦争後に収容所で病死した寿一は、母親が若死にしたためトメになつき、軍人になってからもトメのところによく遊びに来たという。
  独立後は弟子もとるようになり、東京の江崎写真館との交流の中で写真技師を育てた。
2人の息子ができたが、長男には一徳の「一」と父・蔵男の「男」から一男と命名し、家業を継がせるべく江崎の門下生とした。だが、一男は大正10年(1921)に夭折し、次男・嶺が跡を継ぐことになる。
  一徳は69歳で没するまで、約半世紀にわたって足尾を撮り続けた。彼は同時代人から、どのように評価されていたのだろうか。
  明治33年6月、当時『風俗画報』を発行していた東陽堂の主人・吾妻掬翠(きくすい)は足尾と日光を旅した。この時、彼は一徳を知り、同誌に「足尾町の写真師小野崎一徳といえる髭武者先生あり」と記し、一徳撮影の日光の写真も掲載している。掬翠は一徳の技術を高く評価したのであろう。翌34年に刊行された『風俗画報』第234号増刊「足尾銅山図會」では、写真をすべて一徳にまかせ、次のように紹介している。
  「写真師小野崎一徳氏あり、銅山の嘱託として鉱業所内部の建築物、諸器械、役員、鉱夫職夫の肖像等を撮影せり。銅山に於いて縦覧者案内のために編成せる印刷物の写真帳並に本誌揚ぐる所の写真は、ことごとく氏が技術たり」
  また、明治36年に出た蓮沼叢雲(そううん)の『足尾銅山』にも、「足尾赤倉に小野崎一徳氏あり、銅山の嘱託に依り、十余年前の開業にかかり全町一手なれば常に繁忙を極む、技術の老練に加うるに精良の器械を以ってす。故に声誉年とともに加はれり」とあって、評価をえていたことがわかる。
小野崎写真館四代
一徳以降、小野崎写真館は嶺、雅夫、一と引き継がれ、四代目にあたる現在も足尾で営業をしている。
  嶺の長男・勲は江崎写真館に従弟として住み込んで写真術を収得したが、太平洋戦争に召集され、戦死した。それゆえ三代目は次男の雅夫が引き継いだ。雅夫も、写真短大を出て江崎写真館二代目の江崎三郎に二年間師事したのちに足尾にもどり、昭和56年の嶺の没後、家業を守ることとなる。現在は、四代目にあたるその長男・一とともに、日光市の今市と足尾で写真業を続けている。
小野崎一徳写真帖 足尾銅山 著書 小野崎敏より




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